友人の兄が死んだ。
自死だった。
友人からその知らせを聞いたのは5月の終わり頃だった。
「驚かないで聞いてね」「私は大丈夫だから」「聞いても、しんどくならないでね」「やっぱ言うのやめようかな」と散々もったいつけるだけつけてなかなか本題に入らないので、彼女の身にただ事ではない何かが起きているのであろうことは察知した。近しい誰かの生死にかかわることかもしれない、とも思った。そしてそれは彼女の夫か、お兄さんかの、2択。
彼女はすでに両親を亡くしている。
「〇〇君(友人夫)に、何かあった?」
「ううん、〇〇君は大丈夫、元気」
「お兄さん?」
「…うん」
生死にかかわることかもと思いながらも、それでも私はその時点で、お兄さんがもう亡くなっていたとか、ましてや自ら、だとかは、微塵も考えなかった。
なぜなら、友人の愚痴を通してのみ知るお兄さんが、ろくでもない男だったからだ。
私は、自ら死を選ぶ人というのは、心根の優しい、繊細な人だとばかり思い込んでいたのだ。かつて私が知っていた幾人かが、皆そういうタイプだったから。
でも、そうじゃないのだ。
そうか、人は死ぬのか。どんなに傲慢であっても、利己的であっても、心が弱って自ら命を絶つことがあるのか、そう思い知った。
友人の兄は、些細な事にすぐかっとなり、屁理屈を並びたてて他人を攻撃する人だった。
仕事も長続きせず転職を繰り返し、亡くなる1年ほど前からは無職だった。
「貯金を食い潰して、もうお金がなくなったから死んだんよ」と友人は苦笑いしながら言っていた。「私まだ親の遺産、全額貰ってなかったんよね。なのに、お兄ちゃんの預金残高ほぼゼロって。ありえる?」と。
そして、「私は全然大丈夫なんだけど、こんな話して、関谷の方がまいっちゃったら悪いなと思って。あんたは共感力が高いから。」とも言っていた。
共感力が高い。なんとなく意味はイメージできる気がするものの知らない用語だった(し、私には当てはまらない気がした)のでネットで意味を検索してみた。やはり、私には当てはまらない言葉だと思った。
友人が共感力なんて言葉を持ち出した本音はきっと、今回のことで私が別の人の自死の記憶を喚起してしまうことを心配したのだろう。
もう大昔のことなのに、トラウマなのかなんなのか、12年前のその日以降私の身体はたまーに軽い発作みたいなんを起こすようになってしまっていて、それがいまだに続いているから。(ちなみに私はその症状を「余震」と呼んでいる。)
いずれにせよ、友人は本当に元気そうに見えた。
少なくとも、お母さんや、お父さんを亡くした時とは全然違っていた。
*
そして昨夜、友人からまた電話があった。
「こんな深夜にごめんね」と友人。
「え?どこが深夜?まだ全然夕方やんか」驚いて私が答える。
時計を見てみると、20時50分。深夜でも夕方でもなかった。
「お兄ちゃんのことで、抱えきれなくて」と、彼女は鼻声で話し始めた。
ここ数ヶ月、遺品の整理をしていたこと。
そして兄の預金残高が尽きていたと思っていたが、実はそうではなかったこと。
お兄さんが一人で住んでいた実家から、お父さんの未受け取りの生命保険証券、お母さんの通帳、そしてお兄さんが友人を受取人にしてかけていた生命保険も見つかったそうだ。
合わせると、けっこうな額になったらしい。
「お金、なくなってなかったんよ。まだ全然あったんよ。あの人お金のせいで死んだんじゃなかったんよ。」
と彼女は泣いていた。
「人って、わからんね。私、お兄ちゃんのこと、…そりゃ、根っこは悪い人間じゃないっては知ってたけど、でも、トラブルばっかり起こす、情けない人だと思ってた。仕事もせんで、お金が尽きたら死んで、って。でも、お金、あったんよね。お兄ちゃんが亡くなったのは、お金がないからとか、そんなことじゃなかった。私はお兄ちゃんのことを何も知らなかった。」
友人が受け取り人となっているお兄さんの生命保険は、数年前に加入したものだったそうだ。
「その時期に、お兄ちゃんに何があったっけな、って考えてみたん。ちょうど(ひとつ前の)仕事やめた頃だったかも。その頃からもう、死にたかったんかなー、とか、なんか考えちゃって。私さあ、仕事が続かないお兄ちゃんのこと、めちゃめちゃ責めてた気がする。それでお兄ちゃんはいつも不機嫌で、でも、実はその頃からずっと私のためにお金を遺してくれようとしてたのか、とか。本当はどういう気持ちだったんだろうとか、なんで話を聞いてあげなかったんだろうとか、申し訳なかったなあとか、色々。」
「…でもさ、実際にお兄さんがめんどうな人だったということは事実としてあったわけだから。」
「まあ、それはそうなんだけどね(笑)」
怒りがふつふつと湧いてきた。
なんて腹立たしい話なんだ、と思った。
友人は「ずっと私のために」なんて言うけれど、お父さんの保険証券にしても、お母さんの預金通帳にしても、ただ手続きをせずに放ったらかしていただけではないか。それらは本来、とっくに半額分彼女に渡されているべきものだ。自身の生命保険だって、何かを犠牲にこつこつ貯めたお金なわけではなく、預金残高の中から毎月一定額引き落とされていたに過ぎない。そんなものに、友人は混乱させられている。そしてきっとそれは、お兄さんの思惑通りに違いないのだ。
「これほどの金額を遺してやってるんだから、きっと妹は俺に感謝するだろう、俺に詫び、これまでの自身の行いを悔いるだろう」
と、こうなることをわかっていたのだ。最後の最後まで、なんてずるいやり方なんだ。
「私が引き金を引いちゃったんじゃないか」
とまで友人は言っていた。
「そんなことは…」と言いかけるも、さらに彼女は続けた。
「でも知り合いの人に言われたんよね。その人はね、自死をある程度尊重したいって思ってるんだって。だってそれは当人にとっては願望だからって。引き金を引いたっていうけど、それは、悪い意味だけじゃないって。引き金を引いて解放してあげた、とも言えるって。…ああそういう風な考えもあるのかって、それ聞いて私ちょっとだけ楽になったんよね。」
「…そっか…」
正直、私にはあまりピンとこなかった。
私が思う自死は、もっとシンプルだ。
「死ぬ勇気があれば生きられたはず」という意見を言う人たちがいる。
そしてそれを浅はかだと否定する人たちもいる。
私は、浅はかというよりは、ただ健康なのだろうと思う。
死ぬのが怖いのはごく当たり前の感覚で、ましてや自ら命を絶つだなんてそんな痛そうなこと、正常な精神状態であれば到底できるはずがない。
自死は、癌と一緒だ。
死に至る病なのだ。
救えることもあれば、救えないこともある。
治療で治ることもあるし、そうじゃないこともある。
ただ、それだけのことだ。
そう思っている。
けれど、一番大切なのは、残された人が楽になることだ。
友人が「引き金云々」の話で救われるなら、それでいいのだと思う。
私の暴論めいた自死論だって、かつて自分自身を救うために到達した解釈のひとつに過ぎない。
そして、お兄さんに腹を立てているのは友人も同様だった。
「でもさあ、ほんとふざけんなだわ。死ぬほど苦しかったなら言えよ、って。誰かに話したら楽になったかもしれんや?」
彼女が言い、私が答える。
「私、乗り物酔い酷いでしょう?電車とかに乗ってて酔った時ってね、気持ち悪くて身動き取れんのんよね。吐いたら楽になるってわかっとるんやけど、トイレに行けんのんよ。動けないの。ちょっと頑張ればトイレはすぐそこなんだけど、どうしても、無理。立ち上がれない。しんどくて。お兄さんも、そういう感じだったんかなー、って。 …何このたとえ、合ってる?乗り物酔いと一緒にすんな?」
「ううん、しっくりきた。つまり、結局本人に改善する意志がないと、ってことよね?」
「や、そんな大層な話ではなくて、ただ、どうにもできんかったんだろうなって」
「私は、これからどうすればいんだろ?素直にお兄ちゃんに感謝すればいんかな?」
「そーよ!ラッキー★兄ちゃんあんがとー★つって、遺産で好き放題、やりたい放題、生きればえんよ!」
「いや、あのさ、そんな一生遊び暮らせるほどの大金ってわけじゃないからね?(笑)」
「……もしもこれが、億、だったらどうだろう?」
「え?」
「憤りとか、悲しいとか、後悔とか、感謝とか、ごちゃまぜの感情がさ、もしも遺産1億円とかだったら、やっぱ、ラッキー★が勝つんかな?」
「……勝つね。ごめん、突出するわ。」
身勝手なもんだね、と笑い合った。泣き笑い。本当はそんなふうに簡単に割り切れるもんじゃないってことも承知の上。
けれど身勝手さは、生き辛さから己を守るために人間に標準装備された機能なのだと思う。大いに使え。