暇すぎて、古文を学ぶイベントに行ってみた。
学校で古文を教えている現役の先生の講義を、コーヒー飲みながら聴けるらしい。
テーマは、万葉の時代の「恋」。
なんかおもしろそう。
でも私、学生の頃、国語は好きだったけれど古文は嫌いだったんよね…
古文なんてほぼ英語みたいなもんで、単語がわかんないから何言ってんだかわかんなかったんよね…
古文の授業といえば『源氏物語』くらいしか覚えてなく、それも「なんか光源氏と葵の上と夕霧って、だいぶ好色にした孫悟空とチチと悟飯っぽかったよな~」みたいな誰からもあまり共感してもらえなさそうな微妙な記憶しかない私が、講義の内容についていけるかな…こういうのにわざわざ好んで来る人ってだいぶ基礎がしっかりしてる人ばっかなんじゃないかな…ていうかこの狭い田舎町で古文の講義なんて聴きに来る人いんの?まままマンツーマンとかなんないでしょうねええ
って震えながら行ったんだけど、けっこう人いた。こんないるんだって驚いた。
ほぼ中高年だった。どうやら学び直したい中高年は多いらしい。超高齢化社会の日本の未来は、いまんとこまだ大丈夫そう。
「愛と恋の違いがわかりますか?」
先生のそんな質問から、講義はスタートした。
ちなみに質問形式をとってはいるが、生徒に答えさせるつもりはないらしい。
講義は最初から最後まで、先生が一方的に喋って終了した。
「当てたりはしませんので」と最初に断りを入れてもいて、総じて照れ屋な古い時代の日本人に配慮したシステムなんだろうな、と思った。
「愛と恋の違いを問うと、学生は真面目なんで、すごく哲学的な答えをくれるんですよ」
と先生が学生の回答例をいくつか挙げるのを聞きながら、あ、私、これ正解知ってるわ、と思った。知識をひけらかしたくてたまらない。
教えてあげるね!あのね!
愛はまごころ
恋はしたごこ…
「まあ、年配の方は、愛は真心、恋は下心、なんて思うかもしれませんね(笑)昔そういうこと言いましたもんね(笑)」
えっ…
先生のおどけた口調に、会場から笑いが起こる。
なんこれ危な…
恥っず…
挙手とかするシステムじゃなくてほんと良かった… あっぶなぁ…
「愛」と「恋」は国語的には明確に違っていて、「愛(アイ)」は漢語、「恋(こい)」は大和言葉なのだそうだ。なんやそれ。わかるか。
そして「愛」は仏教に由来する言葉なんだって。
人や物に対する執着心を表す言葉なので、仏教的にはあまり良い意味合いではないらしい。「愛」とは、捨て去るべき煩悩の一種なのだ。へー。
では「恋」はどうなの?
という話を、万葉集から読み解いていくのが今回の講義テーマである。
『瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものぞ まなかひにもとなかかりて 安寐し寝さぬ』
(訳:瓜を食べれば子どものことが自然と思い出される。栗を食べればさらに偲ばれる。面影がわけもなくちらついて、安眠させてもらえない。)
もちろん現代語訳を聞かなきゃ、何言ってんだかさっぱりわからない。
そして現代語訳を聞いても、どういうことなのかよくわからない。
ただ、ふと疑問は沸いた。瓜も栗も、そんな気になるなら子どもに食べさせてやればいいのに。どうやらできない状況らしい。いま子ども何処にいんの…?
「この歌、現代の私達の感覚からしたら、ということなんですが、何か違和感を持ちませんか?」と先生。
子どもの所在…?と思ったけれど、指名制でも挙手制でもないので、心の中だけでこっそり返事するだけに留めた。
「子どもよりも、瓜や栗ばかりがずいぶんと身近なものとして捉えられていますよね。子どもがそこにいないんです。なぜかというと、当時は通い婚、妻問婚でしたから、子どもも妻の方にいて、夫は一人ぼっちなわけです。」
なるほど、そういうことかー!と納得した。
にしてもさっきからなんか私、先生の思う壺なある意味超優秀な生徒な気がするんですけど…
先生の期待通りの誤答をし、先生の期待通りの違和感を持ち、そして先生の解説を聞いてはじめてちゃんと理解をする。素直。
多分だけど、私以外のほとんどの生徒のみなさん、違和感なんて持ってないんじゃないかな…はなから「ええ、通い婚ですもんね」てさらっとわかってたんじゃないかな…知らなかったの私だけじゃないかな…その証拠に、隣の年配の女の人も、あっちの前の方にいる男の人も、知ってたのを猛アピールするかのようにめっちゃ笑顔でめっちゃ大きく頷いてる…
『我が背子に 我が恋ひ居れば 我がやどの 草さへ思ひ うらぶれにけり』
(訳:我が夫に私が恋焦がれていたら、我が宿の草さえも枯れてしまった)
「我が背子に、の「に」は、「~によって」というような意味合いです。つまり、相手のせいで自分はこういう状態になっている、ということ。現代の我々にとって恋は能動的なものですが、当時は受け身だったんですね。自分が恋を「している」のではなく、相手によって、恋を「させられている」。自分ではなく、相手の責任だと。これも現代人の感覚とはちょっと違いますね。」
先生の説明を聞き、夢の話にちょっと似ているなと、大昔の古文の授業を思い出した。
なにかの和歌で、女性の夢に彼女の恋人が現れるんだけど、それは夢をみた当人ではなく男性側が女性に会いたかったから夢にまで追いかけてきて現れたのだと、無茶な解釈をかましていた。どことなくあれに似ている…
て思ってたら
「うーん、わかりやすい例で説明するのが難しいんですが…夢も、そうなんですよね」
って先生が言いだしたので、「ほらほらほらーーー!!!」て興奮した。
「我々の感覚では、夢に好きな人が出てきたら自分が会いたかったからって思いますよね。でも当時は『相手が自分に会いたくて会いに来た』と考えたわけです。これも、自分ではなく相手のせい、という発想ですよね。」
はじめて正解した!これだけ知ってた!これ答えたかった!これだけ挙手制にしてほしかった!みんな知ってたー!?知らなかったでしょー!あたし知ってたよーー!!!どやーーー!!!
(こういうめんどくさい輩を排除するために、先生が一方的に喋るシステムなのかもしれない、とりあえずめっちゃ笑顔でうんうん頷いとこ!)
『おほほしく 君を相見て 菅の根の 長き春日を 孤悲わたるかも』
「恋」を「孤悲」と表記してる。オシャレ。痺れる。
歌の意味自体はよくわからんが、先生曰く、万葉仮名は漢字の音だけを借りて表記することが多く、本来の漢字の意味と日本語の意味は無関係なのだそうだ。けれどこれは、その漢字の音と日本語の意味が奇跡的に一致する、たまにある稀な例なんだって。オシャレ。
そして、「恋」は「孤悲」。孤独な悲しみ。
そう。「愛」同様、「恋」もまた、万葉の歌人にとってポジティブなものでは全然なかったのです。
えー?
そんなことあんのかな…
万葉の人は嫌々恋愛してたんかな…?
(『なんて素敵にジャパネスク』の子たちとか、けっこう楽しそうに恋愛やってるぽいけどな…)
弾むような明るい恋の歌って、ひとっっつもなかったの…?
本気で探せば1個や2個くらい…
「て思いたいかもしれませんが、実は万葉集には、嘆き苦しむような恋の歌ばかりで、明るい恋の歌は一首もありません」
ですって。まじか。いや本当に私、思考の順路がずーっと思う壺。
万葉集に暗い恋の歌しかなかったのは、窮屈で不平等で未熟な時代背景を反映しているのかもしれない。
でも、ただの「悲恋系ラブソング」ブームだっただけじゃないの?ともこっそり思ってる。悲恋の物語で人泣かせるのって、ハッピーな話で泣かせるよりはるかに簡単だから。
今回、講義はなかなか楽しくて、勇気出して行ってみてよかったです。
コーヒーとチョコレートも美味しかったし。
まあでも当然だけど導入部分をさらっとなぞった、程度の内容だったかなとも思う。
本屋でたとえるなら、「立ち読み」くらいだ。
これを機に、コブジョ(リケジョ的な、歴女的な、古文女子の略的な)になってみたい気もする。そもそも暇すぎて、何か趣味を見つけたくて、きっかけ作りに参加したのだ。
でも、本って買っちゃったら読まないからな…
本は立ち読みしてる最中が、ピーク。これは間違いない。