something like that.(3)

夜になってイトチンから電話があった。

「夕方電話くれてたよね、どうかした?」と聞かれたので、「ううん別に、ちょっと携帯鳴らしてみただけ」と答えた。そっか、と彼は言い、それから「あと三分くらいで着くから、家の前に出てて」と言って電話を切った。

少し迷ってからくたびれたTシャツを着替え、カーゴパンツのポケットに携帯電話だけ突っ込んでつっかけを履いて外に出る。軒を連ねる家々と庭の木々の影が濃紺の闇に重なってさらに濃い紺色を落とし、夏の夜の空気が露出した肌にさらりと絡みつく。しんしんと、虫がひっそりと鳴いていた。数十メートル先のコカ・コーラの自販機が薄闇にぼおっと浮かび上がり、これくらいがちょうどいい、と思う。昼の光は眩しすぎるし、布団に潜り込んだ時にすっぽりと覆いかぶさってくる暗闇は、深すぎる。

 

ふと、モグラのことを思い出した。

かつて私は、道端に落ちているものを何でも拾って持ち帰るような子どもだった。

ガラスの破片、鎖の壊れたキーホルダー、小石、色褪せたブローチ。

多くの子ども達がそうであるように、当時の私もまた魔法や超能力の存在を妄信的に信じていて、ガラスはただのガラスではなく、小石はただの小石ではなく、それは日常と非日常を繋ぐ特別な何かだった。いつかアニメの主人公の少女たちのように、私の目の前にも魔法世界の妖精や人の言葉を理解する猫なんかが現れ、そして特別な力を与えてくれるはずだった。もし彼女らのように自在に魔法を操ることができたなら、私はアイドルに変身できなくていいし、大好きな彼のハートを射止めなくてもいい。ただこの力を世界平和のために使うのだと決めていた。でも学校に遅刻しそうになった時とか、ちょこっとくらいは自分のためにも使わせてもらおう。そんな甘やかな妄想に胸を躍らせ、昨日までとはまるで別物の今日に出会うため、日々下を向いて歩き続けた。

ある日の学校からの帰り道、いつものように俯いてとぼとぼと歩いていると、かさりと草の擦れる音がして視界の隅に影が走った。私は咄嗟にしゃがみ込み、その影を両手で抑え込んだ。

ずんぐりとした鼠に似た生き物が、私の手から逃れようと薄いピンク色の手足をばたつかせて暴れている。

それはずっと待ち焦がれていた魔法世界の住人に違いなかった。だいじょうぶだよ、なにもしないよ、鼠もどきに言い聞かせるようにそっと囁いた刹那、その不思議な生き物は凄まじい力で私の手を逃れ、「あっ」と叫ぶ間もなく地面の中にするりと滑り落ちて消えた。

それはモグラだと、後になって近所のお姉さんに教えてもらった。

モグラの目は退化していてほとんど視力を持たないのだと、お姉さんは教えてくれた。光の中では生きられないんだね、きっと眩しすぎて死んじゃうんだよと、高校生だったお姉さんは言っていた。

いまや魔法も超能力も幽霊も宇宙人も、目に映らない一切を信じることのなくなった私は、あの日手からすり抜けて地中深く潜っていった小さな獣の感触を、薄闇の中に佇んでただ想う。

そんなわけで私は魔女っ子になり損ねたんだよねと、いつか越智美里に冗談半分に話したことがある。

私が何気なくしたその話になぜだか彼女は過剰に反応し、嘘ばっかりー!とげらげら笑った。なんかみょうだなと思って答え合わせすると、その原因は彼女の信じられない勘違いにあった。
越智美里はきょとん顔で

「え?モグラって、空想上の生物ちゃうの?ほら、河童的な?」

と言い、私は思わずえーっと声を上げた。

「いや、モグラはいるから!普通にちょいちょい目撃されるやつだから!」

「そうなの?マジで?」

「…一応言っとくけど、モグラって、サングラスとかかけてないからね?」

「まじで?え、まじでーーーーー!?」

その後二人で大笑いした。涙が出て、腹が痛くなるくらい笑った。そんなこともあった。

 

 

イトチンの白いムーヴがやってきて、目の前で止まる。

私がドアを開けて助手席に乗り込むと

「いや、乗らなくていいから。俺すぐ帰るから。」

と彼は鈴の音みたいに笑った。

それから後部座席に腕を伸ばしてデパートの紙袋を持ち上げ、きみ仕事もしばらく決まりそうにないし暇だろうと思って、とその大きな荷物を私に渡す。

紙袋の中には、初期のプレステと、ゲームソフト二本と、『はじめの一歩』の五十巻から七二巻までが入っていた。

RPG苦手なんですけど」

ゲームソフトを眺めながら言うと、

「そう思って超簡単なの選んできた。昔のゲームはあっさりしてるからきみでもやれると思うし。それにこれなんて」

彼はゲームソフトのうち一本を取り出して

「ストーリーもしっかりしてるし、名作だよ。オススメ」

と声を弾ませる。

「ふーん、まあ、ありがとう」

「あ、それからこれも。小腹が減った時に。」

彼はさらにコンビニのビニール袋を私の腕に押し付け、「そんで今日の面接どうだったの?」と言った。

「同僚と上司、どっちに認められたい?」私は質問を質問で返す。「両方」「それはだめ、どっちか」うーん、少しだけ考えてから彼は「同僚かな」と答えた。

「あんたもダメ男だね」

「なにがよ、なんでよ。だって働くうえで仲間って大事じゃん」

私が今日の面接の話を(やや自分本位に)再現して話して聞かせると、そりゃ災難だったねえ、とイトチンは可笑しそうに言った。

「でも俺はやっぱり上司より同僚だな。認められたいっていうか、どっちが大事かって話だけど。てか、そんなもん職場環境でも変わってこない?一括りにはできない気がするけど。」

彼の不満そうな顔を見ながら、同じ答えでもこの人なら今日の面接だって受かったのかもしれないとふと思った。いまの職場の人たちともうまくやっているようだし、イトチンは誰からも受け入れられる。誰とでもすぐに仲良くなる。

「きちんと向き合えばどんな人とでも必ずわかりあえるんだよ、きみにはその努力が足らない。」なんてことを平然と言ってのける彼の健全さは眩しくもあるが、苛立たしくもある。そうじゃないんだ、と私は思ってしまう。決して相容れないことだって世の中にはあるのだ。あんたはまだそれを知らないだけなのだと。

そういう災いを招きやすい人間とそうじゃない人間というのは確実にいて、私は前者で彼は後者なのかもしれない。けれどそれだけじゃないはずだ。あんたはまだ渡辺梓に出会っておらず、彼女らの連携攻撃を受けていないのだ。

 

あのさあ、とイトチンが言う。

「なんか、資格とか取ってみたら?やりたいことないの?ほら、この間まで英会話がんばってたじゃん。そういうの、仕事に活かせないの?」
「…くだらない」

ぼそりと言うと

「は?何が?何がくだらないの?」

とイトチンの声がほんの少しだけ尖った。

ぱちり、とスイッチが入る。

「私、もう三十よ?いまさらなんの資格取ればいいの?資格なんて取ってどうなんの?それ活かせるのって何年後の話?そんで通信教育で資格取りましたけど実務経験はありません、なんてそんなもん企業で通用すると思う?ばっかじゃないの?大体私がやってた英会話なんて、あんなもんただのお遊びじゃん。そんなのビジネスで使えるわけないじゃん。イトチンは舐めてんだよ、三十過ぎた女の再就職の厳しさとか、世間のこととか、あんたちっともわかってないからそういうぬるいことが言えちゃうんだよ。現実はドラマみたいにはいかないんだよ。」
早口で一気に捲し立てると、なんだか自分はすごく正当であるような気がした。気分が乗って、もっと彼を責め立てたくなる。いかに彼が世間知らずで非常識で甘ちゃんであるのかをとうとうと説いてやりたくて、私は次に発するべき言葉をうきうきと探す。

しかし彼は「それ逃げてるだけだと思うけど」と言い、まあ本人にやる気がないんじゃ俺が何言ってもしょうがないよね、と続けた。

「まあともかくさ」と彼は言う。

「自分らしさは大切にしなよ」

 

…ああ、ほら。まただ。

私はこいつのこういうところが、なんていうのかもう、たまらなく嫌なのだ。むかついてむかついてしょうがないのだ。怒りがふつふつと沸き、叫びだしたくなる衝動をこらえながら、でもせっかくわざわざプレステやらなんやら持ってきてくれたわけだし、これ以上険悪になるのも違うし、この人はこの人なりに私のことを考えてくれている(気でいる)わけだしと自分に言い聞かせて

「もーさー、こうなったら結婚してよー」

と冗談めかして言ってみた。

「うわ、出た。俺そういう逃げみたいなん大嫌い。」

イトチンもやはり冗談めかして(拒絶の意志を冗談でくるんで)言う。そして「俺寄るとこあるから、行くわ」と言って車を発進させた。

 

夜の闇に紛れてゆくムーヴを見送りながら、イトチンの言葉を反芻する。

「自分らしさは大切にしなよ」

ああつまんない、あいつはなんもわかっていない。

自分らしさ、なんて言ってみれば聞こえもいいしなんだか確固たるそういうようなものがどこかしらに存在するみたいな気がしちゃうけど、そんなものは実のところがらんどうで不安定で脆くて、まるであてになんないんだ。小指の爪の先ほどのほんの些細な出来事で、いくらでも他人に脅かされて奪われて破壊されて、消えてなくなっちゃうもんなんだよ。

 

「あなたは相手を見下していませんか?」

 

薄ら笑いを浮かべたじゃがいも男の粘ついた声がこだまする。

うるせえ、見下して何が悪い。そうでもしなきゃ、じゃあ私はどうやって自分自身を守ればいいの?みんなそうじゃん、あんただって私のことを見下してたじゃん。みんな同類じゃないか。ああくだらない。まじくだらない。生きていくって、ほんとしょうもない。

 

そして私は、越智美里からのメールを受け取った日のことを思い出していた。

会社のパソコンは、メールを受信すると画面右下に小さな封筒のようなマークが点滅する。いつものように客先からの注文をオンラインシステムに入力しながらたったいま点灯したその通知をクリックすると、件名はなく、送信者は越智美里だった。二か月前、会社を退職する直前のことだ。

 

素直に謝ったら、みんな許してくれると思うよー(^◇^)

 

本文を開くと、ただ一言そうあった。

ちらりと越智美里の方を盗み見る。彼女は無表情のまま頬杖をつき、テンキーを乱打していた。

 

ああそうか

全部私が悪いのか

 

何について謝罪すればよかったのか、どこをどうすべきだったのか、いまだにさっぱりわらかない私にはもしかしたら何かとてつもなく重大な欠陥があるのかもしれない。

皮肉などではなく、そう思う。

 

イトチンが持ってきたコンビニのビニール袋を覗くと、中には私の好きな杏仁マンゴーとうまい棒めんたい味、イトチンのマイブームなのだというメロンパン、それに二つ折りのメモ用紙が入っていた。メモ用紙を広げると、鉛筆で描かれたアニメチックなメロンのキャラクターが大口を開け、ダブルピースで笑っていた。すぐ横に吹き出しがあり、「ボクを食べて元気になってねー」とある。

ふっと笑う。そしていたたまれない気持ちになる。私は彼のこういうところが嫌なのだ。少しずれていて、幼くて、、、、、沁みる。

 

職もなく、面接も母親との関係もうまくいかず、他人との適度な距離感を計ることもできず。

私が抱えているものはなにひとつ解決していない。それは今だけのことじゃなく、一年先も十年先も同じなのだろう。いつまでたってもきっとまた、似たようなことを繰り返しているのだろう。しんどいことだらけの人生を、何度も、何度も、生きてかなきゃならないのだろう。(怖えええ

それでも―。

 

ポケットから携帯電話を取り出し、イトチンにメールをした。おやつありがとう、と打って、少し考えてから「自分とちゃんと向き合って、やりたいこと、やれること、やるべきことをもう少ししっかり考えてみます」と付け加えてみた。送信ボタンを押してすぐに激しく後悔したけれど、らしくないメール文を見た彼はきっと笑ってくれるだろう。

携帯電話をポケットに戻し、コンビニの袋からメロンパンを取り出した。

包装を破ってがぶりと喰らいつく。イトチンお気に入りのふっくら丸いメロンパンは口の中いっぱいにほんのりと甘く広がって、ポケットの携帯電話が着信を告げる柔らかい音色を奏でていた。