「おまえって、なんでおもしろくもないのに笑うの?」

お題「心に残っていることば」

 

小さい頃の私は、とても泣き虫な子どもでした。

泣き虫っぷりを数値に換算して普通の子どもが70としたら、私は1000泣く子でした。

お月様が睨んでいると泣き、山が追いかけてくると泣き、動物園が臭いと泣き、跳び箱が怖いと泣き、プールが怖いと泣き、何かにつけ泣いて泣いて泣いて、とにかく手に負えない子どもでした。

そんなユウコ少女は、小学1年生の時、同じクラスの広田君(仮名)にいつも泣かされていました。

広田はしょっちゅうクラスの男子を蹴ったり首を絞めたりしている乱暴な子で、けれど力が強くて、かけっこも学年一早くて、誰も彼には逆らえませんでした。

広田とは家が近所で、下校班が一緒でした。

他の男子がされていたような、身体的な暴力を広田から受けた記憶はありません。けれど下校時はいつも彼に意地悪をされ、私は日課のようにわんわん泣きながら帰宅していました。あまりにも毎日毎日私が大泣きして帰るので、父が広田の家に怒鳴り込んだこともあったと記憶しています。

広田とは小3でクラスが分かれ、彼の両親が離婚したとかで家を引っ越したりもあって、その後接点はなくなりました。心底ほっとしました。

幼い年代のほんのひと時ではあったものの、私は自分が彼にされていたことを「いじめ」と認識していたし、いじめられている自分を恥じてもいました。私にとって広田は、怖くて、憎くて、そして誰にも触れられたくない暗い記憶でした。中3で再び同じクラスになるまで、ずっと。

 

異常な泣き虫だったユウコ少女ですが、小5の図工の時間、転機が訪れました。

その時私は教室を歩いていて、後ろの席の男子の肩に軽く接触してしまい、彼が画用紙に塗っていた色が少しはみ出してしまいました。謝ってもその子は許してくれなくて、後ろの席から執拗に私の椅子の足を蹴りつづけました。びくびくしながら耐えていたものの、我慢の限界がきた私はついに立ち上がって振り返ると、彼の机を思いきり蹴りとばしました。びっくりして椅子から転げ落ちた彼は、うわーん!と大声で泣きだしたのでした。

なんだ、怖いことなんて何もないじゃないか―。

込み上げてくる爽快感。自分が解放されたのはまさにあの瞬間だった気がしているけれど、よくよく思い返せばそれは不意に訪れた転機などではなく、もうずっと前から私はちょっとずつ変わっていたのかもしれません。幼少期に人より多めに泣いたせいで涙のストックが切れたかのように、その頃の私は、全然泣かない子どもになっていました。

 

中学で、卓球部に入部しました。
近所の一つ上の女の子から「卓球部は楽だよ。部室でマンガ読んで、5時になったら帰ってる。」と聞いていたからです。
なのに私が入部した年、顧問が変わりました。
全国大会にも行くような強豪校からその年赴任してきた熱血教師は「県内一厳しい練習をして、県内一強いチームになる」と宣言しました。当時は体罰にもおおらかな時代で、ビンタなんて基本で、顔を掴まれて(親指をほっぺた、他の指を口の中に突っ込まれて)左右に揺さぶられて床に叩きつけられたり、ミスすると灰皿が飛んできたり、ラケットで頭を叩かれてラケットが割れたこともありました。最初21人いた同級生の部員は、中学3年生に進級する時点では8人になっていました。

ちなみにカットマンという戦型だった私は、中1の初の公式戦(個人戦)で部内で唯一県大会に進み、2年生以降は市内の個人戦では常に優勝するくらいの実力になっていました。

 

中3のクラス替えで、再び広田と同じクラスになりました。かつて乱暴者だった彼は、着実にヤンキーへと成長していました。私は「普通」の「明るい子」になっていました。いや、普通とは言い難かったかな、その頃の私は、学校のトイレ掃除中にひとりでホースをマイクのように握って熱唱し、遠巻きにざわつかれるようなちょっとあれな子でした。でもまあ総じて普通の明るい子でした。
当時スクールカーストなんて言葉はまだなかったと思うけれど、ヤンキーだった広田はピラミッドの頂点に君臨し、私は真ん中らへんの無風地帯にひっそりと生息していました。
とはいえうちの中学はヤンキーとヤンキーじゃない子の垣根が低く、クラスは全然普通に和気あいあいとしていました。
一学期半ば、私はまだ過去のトラウマを抱え広田を警戒していましたが、彼はそんなことまるでおかまいなしに「なあ、なんで卓球部の女子って女捨ててんの?」と真顔で聞いてきたりしました。休み時間の教室で、ヤンキー御用達みたいな尖ったロックバンドを「この曲めっちゃいいの、聴く?」といってウォークマンのイヤホンを差し出されたこともありました。(カーストの階層が違う異性との過度なスキンシップは女子の制裁が怖いので遠慮しました。)

いじめられた側は一生絶対許さないけれど、いじめた側は覚えてすらないという、あれです。広田は私のことを覚えていませんでした。

 

広田はよそのクラスの女子とつき合っていました。全校集会で体育館に集められた時は、クラス毎に並んで体操座りしてなきゃならないのに広田はなぜか彼女の膝枕で寝ていました。彼女が広田の爪を切っていたこともありました。そんなカップルはうちの学校では他に誰もいなかったので、ちょっとドキドキしました。
彼は校長室にもよく呼び出されていました。花壇に水遣りする英語教師に向かって広田のグループが2階から石を投げたらしいとか、バイクを盗んで無免許で乗り回していたらしいとか、そんなようなことを噂で聞きました。
卓球部の顧問は「広田は腐ったミカンだ」とこぼしました。「他の不良とは性根が違う、あいつはもうどうにもならない」と。私にはぴんときませんでした。広田も広田以外のヤンキーもみんな一緒に見えていました。

ある日、うちに恰幅のいいおじいさんが訪ねてきました。
どういう身分の人だったかは覚えていないけれど、市内の各学校から推薦された生徒に非行防止作文を依頼して回っている、と言われました。非行、と聞いて広田のことが頭に浮かびました。

 

中学3年生の夏休み、最後の県大会の団体戦で優勝しました。
私以外の部員は全員泣いていたけれど、私だけは泣きませんでした。その後の四国大会で負けた時も、私だけが泣きませんでした。
2学期は、毎日がとても充実していました。あんなに嫌だった部活はもうないし、同じクラスにシノちゃんという大親友ができていたし、他の女子ともうまくやっていたし、毎日笑って楽しく過ごしていました。

そんなある日の給食の時間に、事件は起きました。

生徒会立候補の演説で、2年生の女子生徒とその応援団が、私たち3年4組の教室にやってきました。彼女はウケを狙ったお笑い系の演説を展開していて、でもなんていうのかな…センスじゃなくて大声とかオーバーアクションで笑いを獲りにくるタイプの芸人さんでした。そういうのって、ハマれば爆笑なのかもだけれど、ハマらないと、地獄。そして大概の場合において、まぁハマらない。

結果は案の定でした。彼女が声を張り上げれば張り上げるほど、冷ややかに沈黙する教室。

つるっつるにスベって顔をみるみる紅潮させる彼女にいたたまれない気持ちになった私は、彼女がラスト、「オープンザハート!心を開いて!」と決め顔で叫んだ瞬間、意を決して「あははは!」と声を出して笑いました。せめて、たった一人にだけでも彼女の頑張りが届いたと思ってほしい。
けれどその瞬間、静寂の教室に、広田の尖った言葉が冷たく響き渡りました。

「ユウコさん、おもんないのに笑わないでくださーい」

ピリつく教室。顔をこわばらせ立ち尽くす生徒会長立候補者の女子。ごめんなさい、私のせいで。私が余計なことをしたばっかりに。あんなヤンキーにあなたまで傷つけられる結果になってしまって。
放課後、教室を出ようとしているところを「なあ」と広田に呼び止められました。

 

「おまえって、なんでおもしろくもないのに笑うの?」

 

まだ言う?言葉を失う私に、彼は続けました。
「なんかおまえいっつも無理やり笑ってる感じする」
は?こいつ、何言ってんの?
びっくりしました。
そんなこと誰にも言われたことないのに。 …誰にも気づかれたことないのに。
なんであんたがそんなこと言うの?
なんであんたなんかに見抜かれなきゃなんないの?
え、まさか、私が去年の文化祭で他の友達と回ってるふりして実は一人で女子トイレに籠ってたことなんて知らないよね?前売り券で買ったチーズケーキとちらし寿司、心の中でお父さんとお母さんにごめんなさいって謝りながらトイレの個室で食べてたことも、時間の経過を計るために1から60までをひたすら繰り返し数えてたことも、バレてないよね?
「おもしろいから笑ってるだけだし」そう言って、私はその場から逃げるように走り去りました。

 

受験シーズン真っ只中でした。
広田と仲良しだったヤンキー男子の一人に「どこの高校受けるん?」と聞くと、「H高」と返ってきました。H高は文武両道をモットーとする中途半端な進学校で、そこは私の志望校でもありました。驚いて「あんたにそんな(平均レベルの)学力あったの!?」と聞き返すと、彼は野球推薦なのだと言いました。

広田の他のヤンキー仲間も、「H高」(あんたも!?しかもフツーに模試の結果で!?)とか「高専」(こここ高専!?)とか「工業」(ほーん)とか、皆それぞれ学力や適性に見合った志望校をちゃんと決めていました。
けれど広田だけは「俺は高校には行かんかもしれん」と言いました。「勉強なんかやりたくないし」と。あ、腐ったミカン、と思いました。

 

毎年冬に行われるマラソン大会で、広田は下位グループでした。
「あいつ本気出せば速いのに全然真面目に走らないもんねー」とクラスの女子は言っていました。その頃の広田はもう、長距離でも短距離でもかつてのように目立つことはなくなっていました。きっと本気を出さないから勝てなくなったのではなく、勝てなくなったから本気を出さないのだと私はこっそり思っていたけれど、そんなことを口にしたら女子から袋叩きにされるだけなので黙っていました。
ちなみに女子卓球部員は私を含め全員運動神経が鈍くて、マラソン大会の成績も1年生の頃は皆女子100人中90位前後とかだったのに、3年生では、私以外全員が20位以内、しかもその半数は一桁順位になっていました。私だけがいまだ60位辺りをうろうろしていて(それでも成長してんだけど)、顧問に「だからおまえは信頼できんのよ」と言われました。ごもっとも、と思いました。

 

以前書いた非行防止作文が冊子に収録され、どこだかの施設で朗読することになりました。

その打ち合わせを国語の教師と体育館ステージ前でやっているところに知らない女子生徒が近づいてきて、「部活を辞めさせてください」と言いました。国語の教師はバレー部の顧問で、女子生徒はバレー部員のようでした。
先生は部活動の意義とか、何かを最後までやり遂げて得られる達成感とか、そういう話をして、ちょうどここにそれを体現する先輩がいると私を紹介し「ユウコさんの経験を彼女に聞かせてあげてほしい」と言いました。
けれど私はただ、「部活を辞めさせてください」のたった一言が3年間言えなかっただけでした。たかが部活動ですら、私は敷かれたレールからはみ出すことができなかっただけでした。部活動で得られたものなんて何一つないと思っていました。あったのかもしれないけれどたいしたものではないし、卓球をしていた膨大な無駄な時間があればもっと他にできたことがあったとも思っていました。だから私は目の前の彼女をすごいと思いました。辞めたいって、ちゃんと自分で言えてえらいね。頑張れ。辞めることを、頑張れ。
でもそんなこと言えるわけないので、「たはは…」とまた曖昧に笑ってごまかしました。

 

体育館のステージ下の道具倉庫が、私とシノちゃんの掃除担当スペースでした。
昼休み終了後の15分ほどの掃除の時間、広田とその不良グループは「隠れるのにちょうどいいから」という理由で、いつも私たちの掃除場所にやってきてフラフープやバスケットボールで遊んでいました。
卒業間近のある日の掃除時間、広田にけじめの一言をぶつけてみました。
「私小1の頃あんたにいじめられてたんだけど、覚えてる?」

「嘘、俺ら小1で同じクラスだったの?全然覚えてない。」

「一発殴らせてくれたらわだかまりも解消するかもしれないんだけど(しないかもしれないけど)」

「やだ、やめて(笑) その代わり、罪滅ぼしとして卒業するまで俺がおまえを守ってやるっていうのはどう?」

「いやこの平和な日常でなにから守るっての」

「…コバの弟、とか?(笑)」

コバの弟。

3年生になったばかりの頃、部活動紹介で体育館のステージに立った時、まず自己紹介しようとして緊張から思わず「ユウコどす」と訛ってしまって以来、小林の弟(中1)が校内ですれ違うたびに「どすー!」と絡んできていたことを

「おまえ知っとったんかwwww」

二人でぎゃははと笑って、その瞬間、私のもやもやは完全に解消された気がしました。
もういいよ。だって、私はこっそり非行防止作文であんたをネタにして図書券(500円)貰ったし。

 

結局広田は、答案用紙に名前さえ書けば受かるけれど最悪名前を書かなくても受かる、と評判の地元のヤンキー高校に進学しました。それからまもなくして暴走族の総長になったらしい、と聞いたのが私の知る彼の最後の情報です。

彼はいまも腐ったミカンのままなんだろうか。

卓球部の顧問他おおかたの予想を裏切って、完熟ミカンになっていることだってあるかもしれない。(全然うまいこと言えてない)

 

 

お題「心に残っていることば」

 

心に残っている言葉と聞いて広田(仮名)のことがまず浮かぶなんて、我ながらばかげていると思います。

非行防止作文の冊子はもうとっくの昔になくしたし、何を書いたのか、内容もほとんど覚えていません。けれど「おまえって、なんでおもしろくもないのに笑うの?」と彼に聞かれたことを書こう、と決めたことは覚えています。衝撃的な一言だったから。言われた瞬間すごく恥ずかしくて、なのになぜか言い当てられて救われた、みたいな気持ちにもなってしまった、くっそヤンキーの不躾な言葉。

けれどいまにして思えば、広田は別に見抜いていたとかじゃなく、ただ「っぽい」ことを言ってかっこつけたかっただけなんじゃないか(どうせヤンキー漫画か何かの受け売りなんでしょう?)という考えもよぎるし、あの頃私は別に無理して笑ってなんかいなかった気もします。かつての「明るい属性」で「いつも笑っている」私はいまの私とはかけ離れているけれど、それもまた、私の中にいる本来の私の姿の一部、だったのかもしれません。

 

あと高校に進学した時、同じクラスになったよその中学出身の女子に「私あんたのこと知ってる!なんか顧問にぶんぶん振り回されて床に叩きつけられて眼鏡飛んでなかった!?」と言われ(隣でやってたバレー部の練習試合に来てて目撃したらしい)、「すごー!あの時のあの子に会えたー!」みたいな感じで友達づくりのきっかけになったので、それだけは卓球をしていてよかったと思いました。