突発性難聴で死ぬわけないけど死ぬかと思った話

突発性難聴になった時、大げさとか冗談とかじゃなく、本気で「死ぬ」って思いました。

 

違和感が始まったのは、忘れもしない、GW明け初出勤の日の昼過ぎ頃。なんかやばい感じの耳鳴りがずっと続いていたんだけど、それが「どーーーん!!!」という衝撃音になった瞬間、私真面目にミサイルでも落ちたのかと思ったから。でもそれ超特大の耳鳴りでした。あんな爆音だったのに、職場で私にしか聞こえてなかった。

次の違和感は、その日の仕事帰りの車中(※マイカー通勤)。カーラジオの音がきんきん響いて聞こえて、あれっ?と思いました。ためしに片耳ずつ押さえてみて、その時はじめて右耳がまったく聞こえてないことに気づきました。

帰宅し、玄関で靴を脱いだ瞬間めまいがして一瞬ふらついたものの、その時はまだ右耳以外に体調の異変は感じていませんでした。

早速ネットで検索し、なるほど私は「突発性難聴」になったのだな、とわかりました。いや、とっくにわかってましたけど。「突発性難聴」で検索したんだけど。ネットのおかげで疑惑が確信に変わりました。

 

そっからがもう、地獄。

夜中、激しいめまいに襲われる。

あまりの気持ち悪さに、頭をほんの数ミリも動かせない。

 

めまい嘔吐めまい嘔吐めまいめまいめまいめまい嘔吐めまい嘔吐めまい嘔吐めまい嘔吐嘔吐嘔吐嘔吐めまいめまいめまいめまいぐるぐるぐる…

 

 

この夜、私は「死」を意識しました。

 

 

ネットで病名は確認したし、「めまいと吐き気を伴う場合もある」って書いてあったし、突発性難聴死に至る病ではないことは理解していたはずなのに、極度の苦痛と孤独のせいで、私の意識はすっぽりと「死」に覆われてしまっていたのでした。

 
ああ、死ぬってことは、なにもかもをいっぺんに全部失うことなんだ…
お父さんもお母さんも妹も友達も、みんなが全員まとめて私の前から消えていなくなるってことなんだ…
私が死ぬってことは、イコール私以外の全員が死ぬってことと同じなんだ…
もう二度と誰にも会えなくなったその状態が、気が遠くなるくらいずっとずっとずーっと続いていくってことなんだ…(※だいぶ錯乱中)
 
圧倒的なまでの、無。喪失。恐怖。
ほんの少し前、「死にたいわけじゃないけどどうしても生きたいわけでもない」と思っていた時期があったのだけれど、実は私はまだ全然死ぬ準備ができていないのだと思い知らされました。
 
翌朝になっても、めまいと吐き気はまったく収まっていませんでした。
自力で病院に行くのは無理だと諦め、実家(車で10分)に電話をしました。
父がすぐ迎えにきて、病院に連れて行ってくれました。
そのまま入院になりました。
お医者様から受けた説明はほぼネットで見た通りの内容の反復で、ネットすげぇな、と思いました。その日の聴力検査では、私の右耳はあらゆる一切の音にまったく何の反応も示しませんでした。
 
入院してから最初の3日間は車椅子生活でした。歩けないし、真っ直ぐ立つこともできませんでした。ここまで酷いと聴力が回復する見込みはまずないでしょう、と早々に診断を下されました。
病院のベッドに横たわり、白い壁に四角く切り取られた水色の空を眺めながら、なんかこういう情景を詠んだ俳人がいそうな気がしたけれど、それが誰だったのかはわかりませんでした。どれ私も一句、と思っだけどなんっっにも浮かびませんでした。
 
病院のベッドで、ばかげた思考だけれど、身体の機能のひとつを失ったことでひとつ罪が相殺されたかのような、奇妙な安堵感を感じていました。
他人をたくさん傷つけて、裏切った。
右耳ひとつで償えるなら安いものだ、私の中途半端な覚悟に見合ったちょうどいい代償じゃないか、みたいな。
うん。本当にばかげています。こんなもんGWにばかみたいにスマホのパズルゲームやり込んだ翌日に発症しただけなのに。罪とか罰とか、なんの因果関係もないのに。たかが突発性難聴ごときでカッコつけて、何を一人で盛り上がっとんねん、て話です。
 
私は大部屋に入院していたのですが、最初の1週間ずっと病室は私一人きりでした。というか他の病室も空室や空ベッドが目立ち、「この病院大丈夫?」とちょっと心配になりました。
けれどある日、向かいのベッドに70代後半ほどの女性がやってきました。
彼女は病室に入るなりまず備え付けの棚を開き、「……くっさ」と言い捨てました。
それから床を見て「髪の毛落ちとるがね、きったない」と言い、窓を開け「くそ、カーテンぼろいのぉ」と言いました。
なかなか手強そうです。
夕方、彼女は誰かに電話していて、「暑い。こんなとこ暑くておれんわね。ほんと酷い。西日が眩しくてたまらん。」とまた文句を言っていました。
私は開放した窓からの風がとても気持ちいいなあ、とちょうど思っていたところだったので、(ばばあ、ならその暑苦しいセーター脱げや)とこっそり思いました。
彼女は夕食の味噌汁にも「なんぞこれは、味やかせんじゃないか。こんなもん味噌じゃあるか」と言っていました。
私はここの味噌汁をとても美味しいと思っていたので、(ばばあ、普段どんだけ塩分摂っとんねん)と思いました。
夜、ばばあは看護師さんにずっと文句を言っていました。
「テレビが見づらいからこのぼろいベッドの高さをもっと上げてんや」
「ごめんなさいねえ、このベッドは高さ調節できないんですよお」
「他人が飲んだコップでお茶やか飲めんわね、気持ち悪い」
「ごめんなさいねえ、消毒はしてあるんですけどねえ」
「あの味噌汁は何?味噌やか入ってないんじゃない?」
「また栄養士さんに話聞くように伝えておきますねえ」
その晩、ばばあは電話で誰かにまた同じ文句を繰り返していました。「ベッドぼろい西日眩しいお茶汚い飯不味い。」 からの
「…うん、うん、そうなんよ、4人部屋。…同室の人?おとなしそうな若い子よ、話し相手になんかならんわね、そのうちあの子が出て行ってくれたら個室になるんじゃけど」
 
…………おい、ばばあ(笑)
 
翌日、ばばあに「あなたはいつ退院予定なの?」と聞かれました。
「さあ、わかりません、でもここ居心地いいんでまだまだ居座るつもりですよー(笑)」と答えました。
ばばあのところに栄養士さんが来ました。
「魚、お嫌いなんですよね?」と確認する栄養士さんに
「うちは刺身が好きなんよ。煮たり焼いたりしたのは、いかん。好かん。刺身を食わせろ。」と、ばばあ。
「うーん、刺身はあんまり出ないかもですねえ」
「うちは刺身が食べたいんよ。煮たり焼いたりしたのは好かん。」
「お肉なら食べられますか?」
「うちは焼肉が大好きなんよ。」
「でしたら、魚は禁止にしておきますね。お肉、がんばって食べてみてくださいね。」
「ほおかね、わかった。」
栄養士さんが出て行ってから、はあ頭が痛い、辛い、辛い以外に言うすべを知らん、注射も痛い、下手くそが、とぶつぶつ言っていたばばあに、
「私なんて今日点滴7回も打ち直しされたんですよー、なんか私の血管、手強いらしくて(笑)」と話しかけてみました。
ばばあは目をまん丸にして、「ほおかね、あなたはそんなことかね」と言いました。
その日の晩、「あなた、こんなん飲めるかね?美味しくなかったら、まくらんかい(捨てなさい)」と、豆乳きなこをくれました。
 
…………ばば、 あ…… (´・ω・`)
 
朝、ばb…彼女と洗面所で一緒になりました。
洗顔をする私をじいっと見つめる彼女。
「どうかしました?」
「あなた、洗顔料は何を使ってるの?」
「ビオレですけど…使います?」
彼女は何か言いたげな顔でううんと首を振り、そのままトイレへの方に向かいました。
 
病室で看護師さんが巡回に来た時、彼女は看護師さんに「あなた、キレイに眉描いとるねえ」と言いました。「うちも眉くらいはちゃんとせな思うんよ、こないだ眉墨買ったんだけど」と話し始める彼女に看護師さんは、「入院中はお化粧なんて気にしなくていいですよ、のんびり過ごしてください」と明るく言いました。
違う、と、その時はっとしました。
違う、さっきの声掛けの正解は「お化粧なんてしなくていい」じゃなく「じゃあ今からお化粧しちゃいましょうかー!」なのではないか。もちろん多忙な看護師さんにそんな余計なオプションまで望むわけではない、ただ、年齢を重ねたって、ここが病室だって、彼女は放課後の10代の少女のように、メイクやお洒落の話をしたいのではないか。あの時私はビオレなんかじゃなく、もっと上等な洗顔料の情報を提供しなきゃならなかったのではないか。(ビオレに謝れ。
 
「このカバン、素敵ねえ」
棚のフックにひっかけていた私のエコバッグを指さして、彼女が言いました。
「これ雑誌の付録なんですよ」
『リンネル』を見せながら言うと
「え、この本を買ったらこれが貰えるんかね?」と彼女は不思議そうに言いました。
「はい。付録でも侮れないでしょう?」
「たいしたもんじゃ。うち、全然知らんかった。うちは、なーんも知らん。」
「雑誌、見ます?」というと
「うちが着られるような服あるかね?」と言うので
「もちろんですよ」と答えました。
「じゃあ、あなたここに座りなさい」と彼女が自分のベッドをぽんぽんと叩くので、ベッドに並んで座って『リンネル』のページをぱらぱらと捲りました。
「どれも素敵ねえ」と彼女は目を細めていました。
 
入院中、私は病院の食事をめちゃめちゃ楽しみにしていました。
彼女は「不味い」と文句を言っていたけれど、私はかなり美味しいと思っていて、毎回の食事をスマホで無意味に撮影したり(誰に見せるわけでもSNSに上げるわけでもなく退院後全削除)、ホールに貼り出されている1週間の献立表を再三チェックしたりしていて、むこう3食分はしっかり頭に入っているほどでした。
「明日のお昼ご飯、刺身らしいですよ」と教えると
「えっ!」彼女の目がきらきらと輝きます。
「刺身って、何の刺身だろか?」
「さあ…、そこまでは書いてなかったと思いますけど、献立表、見に行ってみます?ずっと寝てるより歩いた方が体も楽になるかも。」
「あなたも行くんかね?」
「あ、はい」
貼り出されている献立表にはやはり何の刺身かまでは書かれておらず、彼女は「何の刺身だろうねえ」とまた繰り返していました。
病室に戻ってベッドに横になりながら、「一緒に歩いてくれてありがとう」と言われました。
かわいいところもある人なのだ、と思いました。
 
そして翌日のお昼ご飯直前。
特濃ミルクを舐めながら「アメ食べますー?」と何の気なしに聞くと
「あんたは何を言よるんぞね!今日は刺身なんじゃけんお腹すかせとかな!」と叱られました。ごめんなさい。
 
そしていよいよ待望の――――――!!
 
容器の、蓋を開けたら…
 
たら…
 
彼女のメニューは、刺身ではありませんでした…(えっ?)
 
昼食を運んでくれた看護師さんが朗らかに言います。(えっ? えっ?)
 
「えー?だって〇〇さん、お魚禁止になってますもんねー」
 
(あっ… )
 
「お肉なら食べられますか?」
「うちは焼肉が大好きなんよ。」
「でしたら、魚は禁止にしておきますね。お肉、がんばって食べてみてくださいね。」
「ほおかね、わかった。」
 
かける言葉が見当たりません。
おろおろしながら「あっ、あの、よかったら交換、します?」と言ってみましたが、彼女は怨めしそうに私の容器を覗き込んで一言
「うち、マグロの刺身は好かんからいい…」と言いました。
本当にマグロが嫌いだったのか、遠慮したのかただ拗ねていたのか、彼女の言葉の真偽はわかりません。
 
私が退院する日を、彼女はずっと気にしていました。
もしかしたらほんの少しくらい寂しがってくれていたのかもしれません。
でも「あなたが出て行ったらそっちのベッドに移動させてもらうの、そっちの方が西日がまだマシだから」とも言っていたので、私の退院が待ち遠しかっただけかもしれません。
彼女はわざわざお取り寄せしているという高級そうな梅干やらなんやらを色々くれました。梅干のあまりの美味しさに、そりゃ病院の食事じゃ納得できなくなるか…という気もしました。
私の退院日が近づき、そうだ餞別に雑誌でも、と思って病院の売店に行ってみました。
前に一緒に『リンネル』を見たけれど、彼女にはもうちょっと大人な雑誌が似合う気がして『大人のおしゃれ手帖』なんてどうだろうと思ったのだけれど、売店には付録つきの雑誌はありませんでした。
退院した後に本屋で買って病室に持っていくことくらい簡単だけれど、そこまでするつもりはありませんでした。私は彼女のお友達になれるわけではない。
 
そして退院の日。医者に「何か質問はありますか?」と言われたので「今後の生活で気をつけることはありますか?」と質問したら、「これからは左耳を大切にしてください」と言われました。深い、と思いました。なんだかとても大事なことを言われた気がしました。
そうだ、これから私は失ったもの(右耳)を嘆くのでも取り返そうと足掻くのでもなく、今あるもの(左耳)を大切に生きればいいのだ―。
 
つきなみだけど「死ぬかと思った」瞬間は、同時に「どう生きるか」を見つめ直す瞬間でもあったのです、っていう話。
 
 
いやほんとは大昔の突発性難聴なんかよりも今日いまこの瞬間の方が株(信用取引)のせいでよっぽど死にかけていますけどね!!ストップ安ぎゃああー!!!
 
 
 
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